補足コメントその3

問題は、歴史が「物語」ではないとして、それでは客観的なスタンダード東アジア近代史みたいなものがあるのかと突っ込まれた時でしょうね。言語論的展開とか解釈学とかいう話になれば、結局はどの「物語」をチョイスするのかという千日手に持ち込まれますから。似たような物語的歴史教科書は中国や韓国にもあるんだろうし(作る会がその辺で自分たちの言説の存在論的な立場にどれほど自覚的なのかは私は知りません。でもネットウヨ房にオントロジカル・ゲリマンダリングなんて概念は理解出来ないだろうなあ)。

これもいくつかのパートにわけて考える必要があるでしょう。

まず最初に「つくる会」の方法論的なアプローチについて。これに関しては「私たちの問題としての「新しい歴史教科書」」*1で扱った問題です。以下引用パートは同論文からです。

彼らの「事実」に対するスタンスを以下のようにまとめました。それは「歴史は科学ではない」と定義したうえで、「事実」は解釈する主体によって変化するために、共有しづらいものとされる。

 (「つくる会」教科書の「事実」に対するスタンス) 「事実」の共有が不可能であるならば、民族や国によって歴史が異なる。そういった異なった歴史が歴史が世界の中にそれぞれ別個に並立して存在しているのであると話は導かれる。そして、歴史の記述とは、「事実」が無数の「物語」として存在するなかから、ある「物語」を意識的に選び取っていく過程であると位置づけられる。

このような傾向は「つくる会」のイデオローグであった故坂本多加雄によるものだと考えられています。彼の死後、少しずつこのような傾向が影を潜めつつあることは指摘できるかもしれません。

また、こういう態度は別に「つくる会」だけに見られるものではなく、歴史学においても、盛んに議論されてきました。一番のきっかけは「従軍慰安婦問題に関する上野千鶴子の介入」だったと思いますが。

  「つくる会」は、歴史が過去の復元ではなく、解釈する人間=語り手によって構成されるものとする、いわゆる「歴史の構成主義」の態度をとる。その論理は、「つくる会」に特有のものではない。成田龍一によれば、歴史学の内部でも90年代は80年代から続く「社会史」の潮流によって、歴史の「大きな物語」の周縁が唱えられ、「戦後歴史学」に大きな動揺をもたらした。それまでの「戦後歴史学」が「歴史の本質主義」の立場をとるのに対し、「社会史」は「歴史の構成主義」の立場をとる。その意味において、つくる会歴史学の新しい潮流と共通の論理を持つともいえるのである。

こういう「歴史学の新しい潮流」は、もちろん日本の歴史学の中心的な位置になっているわけではありません。ただし、僕をはじめとする若い世代の歴史家は、個人差がかなりあるので一般化することは絶対にできませんが、多かれ少なかれこの影響を受けていると思っています。少なくとも僕は「事実」の自明性を絶対なものとしては考えていないし、歴史はある種の「物語」性を含むものだと考えています。

ただし、このような歴史学の新しい潮流と「つくる会」の立場で決定的にことなる点があります。それは「主語」の問題。

しかし成田も指摘するように「構成主義」においては、語り手の立場、と主語がいったい誰を指すのかという点がつねに問題とされざるをえない。語り手を設定することでしか歴史を物語る行為は成立しえないならば、その語り手がどんな存在であるのか。そのような立場をとり、そしてその語り手とその主語による「歴史=物語」では何が語られ、何が語られないのか、が重要な論点となる。先に引用したとおり、『新しい歴史教科書』では、「国」や「民族」といった主語が、検討されることもなく自明のものとされている。この点について、学習会での姉川報告では「構成主義の簒奪」として批判している。

この立場を取る場合、僕はこの「主語」の問題、「誰が誰に向かって語るのか」を史料のレベルで、そして叙述のレベルで常に意識せざるをえない、と思っています。しかし、「つくる会」やおそらく多くの「ウヨク」的な言説ではこれが固定化されている。そこに違和感を感じているわけです。

その違和感の源泉は、おそらく共有している時代感覚とそれに対する解決方法。

私たちも「大きな物語」が失われた不安感を共有する。しかし、『新しい歴史教科書』は同じ出発点から始まっていながらも、その解決策として「事実」を「物語」に回収し、新しい「大きな物語」を作ろうと試みる。

国民を主語とし、未来の国民へと語られる「歴史=物語」という構図は、ほとんどの歴史教科書に共通するものである。しかし、それを支えていた「国民国家」という「大きな物語」もまた、すでに自明のものとはされていない。にもかかわらず、もしくは、だからこそ、『新しい歴史教科書』は、「事実」を物語化し、国民=「公民」へと回収する機構を再生産しようとするのか。
(中略)
  「大きな物語」の失墜と「共同体の崩壊」という、二つの問題を対象とする『新しい歴史教科書』はそれゆえに支持を得るわけだが、しかし、その対処の内実はと言えば、時計の針を逆転させるような試みでしかない。その試みははたして可能なのだろうか。

問題意識のベースが、ポストモダニズム的な認識にもかかわず、その解決方法が「大きな物語復権」という風に復古主義的で、方法的に矛盾しているように感じられるのです。いまさら「国民」とか「国家」なんて言われてもね、ということ。もちろんこれはそういう認識枠自体が揺さぶられていることに対する、率直な不安であったり、揺り戻しなわけですが。

さらにこのような傾向は、もちろん日本の「つくる会」に代表されるような保守主義だけに見られるものではありません。ポストモダニズムを批判していたら、いつのまにか「キリスト教的伝統」みたいなことを言い出しちゃうテリー・イーグルトンとかもいますし。もちろん議論の洗練のされ方に雲泥の差がありますが。

個人的な意見をまとめると、「歴史」と「物語」という関係は現在、すごく悩ましい問題として歴史家に投げられている。それに対するスタンスは各個人によって異なっていて一般化することはできない。ただしそういう立場を取ろうとするならば、「主語」の問題は避けては通れない。さらに、そういう前提で叙述するのであれば、それでもあえて「国民」という主語を使うのであれば、それを論理的に説明する必要があると思っています。「リアル厨房」向けの歴史教育としての歴史教科書なんだからわざわざそういう「理論武装」する必要なかったのだから。

あと受容者に関して、(O・Gとか言語論的展開とか)論理ではなく肌感覚でそういうことをわかっていると思っています。ただ、いろいろな情報、しかも異なるベクトル、強弱をもつそれが同時に伝達され、それらをうまく処理することができていない。それで混乱している。だから、その善悪や優越をつけるために、よりいっそう「事実」に拘泥しているのかもしれません。肌感覚としての「事実」、より実存に結びついた形でのそれぐらいしか、もはや寄って立つところがないのかもしれません。

*1:『国境を貫く歴史認識』、青木書店、2002年