「つくる会」会見のテープ

5月10日に外国特派員協会で行われた「つくる会」の記者会見、テープ起こしがネット上にアップされている模様。(成城トランスカレッジ!さん経由)

人のこと言えた立場ではないが、まだ関心持っている人いるんだね、結構。

この問題に関して、文章化できなかった素朴な疑問がいくつか

1.「みんな、日本の歴史教科書や学校での授業が自虐的だった、とかいうけど本当に覚えているの?」

僕はちなみにぜんぜん記憶にありません。中学の授業の内容や教科書なんて。高校時代すら怪しいな。授業中はもちろん落書きしているか、窓から外を眺めているか、友達と悪ふざけしているか、まあそんなもん。もとより授業とか聞かない人だったし、ノートとか取れない人だから。そんなわけで、その手の話がぜんぜんピンとこない。これは年老いた今の話じゃなくて、『ゴー宣』とかで取り上げ始められたころからの話。さすがにそのころはもう少し脳みそも若かったはずなんだけど。たぶんみんな真面目で、教科書ちゃんと読んで、先生の話をちゃんとノートにとって、それを覚えたんだね、エライ。

2.「学校生活で日教組とかの影響感じた?」

僕は沖縄出身なんで、バリバリなはずなんだけどね、これもあんまりイメージ沸かないな。中学校の学校での記憶は、ほとんど友人がらみなんだよね。先生とか覚えているけど、思想とかそういうのあんまり関係なかったな。ああ、そういえば、学校の前で赤旗とか配っている先生居たな。それぐらい。きっと今騒いでいる人たちはおませさんで、小さいころからそういうのに敏感だったんだろうね。*1

3. 「マルクス主義はなんでだめなの?」

念のために、僕はマルクスすら読んでいないインチキ大学院生歴史専攻ということで、通っています。マルクス読んでいないくせに、グラムシとか引用しようとするヘタレです。

「歴史は科学ではない」と断言してしまえる「つくる会」は置いておくとして、一応、科学であるという前提に立った場合、共通の議論をするための道具として、マルクス主義的な理解って未だに重宝だったりするわけですよ、学問をする上では。特に歴史学の場合はね。発展段階論を信じるとかそういうレベルではなく。*2

でもたまに、現在のアイルランド歴史学の主流みたいな変な地域だと、それを経由していない人が結構いて*3、共通の問題設定を作ることができなくて大変なんですよ。イギリスも保守的な歴史学だとそういう傾向があるのかもしれないけど、あの国は新左翼的研究者が結構居たので、その辺を足がかりにするとまあ問題ない。フランスもそんな感じ。アメリカも意外とそういう傾向の学者が多いので、問題がなかったりする。そして悲しいかな、それに変わる「大きな物語」が発見されていない以上、まだまだその有効性は失われていなかったりするわけで。こういう「道具主義」的な利用と、イデオロギーとしてのそれは、ちょっと分けて考えなきゃならないじゃないかな?僕みたいな「道具主義」も考えものだけど。

*1:同居していた叔父、叔母が共に中学教員で、少し大人になってからそのへんの愚痴は少し聞いたけど、たぶん一般に言われているようなものとはかなりかけ離れていた。少なくとも沖縄ではね。

*2:無論、そういう人も一杯居るけど

*3:アイルランドの知識人に尋ねたところ、一時期60年代末にファッションとして皆飛びついたけど、ほとんど根付かなかったそうな。同級生とかの発表を聞いても、やっぱりほとんどそういうものを学問的に経由していない。だからポスコロとかカルスタとかって、少なくともアイルランド歴史学にはほとんど導入されていない。ポストモダンすら導入されていない。なんでいま、学際的な研究とかする余地がないのです。