『エレファント』

もう何度目になるのか忘れましたが、学校に行くのにセーターを持っていき忘れ、コートの下はTシャツという素適な状況で、幸い晴れて、なんやら春っぽい陽気なんで、平気かなと余裕かましていましたら、打ちっぱなしのコンクリ&暖房なんてきいちゃいねえ図書館は、地獄のように寒く、普段仕事しているマニスクリプト・ルームという場所も、今週は結構混雑しており、2口しかない電源の争奪戦に飽き飽きしていることもありまして、映画でもみるべと、早々に学校を後にした昨日の午後。

見た映画は『エレファント』という映画。後で気づいたんですが、カンヌ取った作品なんですね。日本ではまだ公開日は決まっていないようですね。http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD4392/index.html

内容は、いわゆるコロンバイン高校事件をモチーフにしたドキュメンタリー仕立ての映画。おそらく、少年たちの心の闇に迫るようなそんな学園ドラマであろう、というのが、見る前の予測。


話はちょっとばかりずれます。アイルランドに来て、それこそ阿呆のように映画を見るようになりました。*1もちろん日本語字幕なんぞつきません。「英語なんて、楽勝っすよ」なんて、冗談でもいえない程度、つまり、そんなに上達しているとはいいがたい、僕が、でも不自由なく映画を楽しめているのにはわけがあります。簡単に言うと、映画「文法」みたいなものに依存しているわけです。映画は、それこそものすごい量の情報で構成されているわけで、その情報の流れを構成しているコードを、「文法」といっているわけですが、これは、まあ何本か映画を見ていたら、なんとなく自然と身に付いちゃた程度のもので、別に難しいことを意味しているわけじゃありません。要は、「『13日の金曜日』で馬鹿ップルがいちゃいちゃし始めたら、ジェイソンに殺される」みたいな規則の集合体だと思っていただければ、わかりやすいかも。当然、これはすべての人が共通のものを持っているわけじゃないし、同じ反応をするというものでもないと思います。ただ、その平均的なところを採用し、それを有効に使っているという点に関しては、ハリウッド映画はものすごく優れていると思っています。*2「文法」に忠実であれば、理解するのはそんなに難しくない、足りない言語データーを音響や映像データーで補完して、ストーリーへ還元できるので。逆に、その「文法」からの逸脱の加減や、違う「文法」体系の使用、というものも、それはそれで、興味深く、楽しめるわけです。あくまで僕個人の感想ですが。

で、なんで、こんな話を書いたかというと。この『エレファント』という映画を見て、その「文法」への依存を痛烈に感じさせられたわけです。この映画は「文法」を忠実に利用しながら、それを逆手にとって、衝撃を与えるんです。そして、この適用が全編にわたり繰り返される結果、各個人の思惑や、ちょっとした正義感や、苛立ちや、好奇心や、なんかすべての感情をストーリへ還元させる、つなげていくという、映画「文法」の根本的なテーゼそのものを、破壊するわけです。だから、泣きもしないし、笑いもしないし、でも、ものすごく怖いし、ものすごくショックを受けます。「圧倒的で、しかも突発的な暴力の前に、人間何ができるのか?」という問いに。「非常に無力な私(達)」という、何の展望もない、でも恐らく事実であり、事実であるからこそ、これにいろいろなおひれはひれをつけて、物語化する(してしまいたい)、自分というものに、気づかされてしまう。

という感じなので、デート映画では絶対にありませんが、お勧めします。

*1:理由は、1.テレビがない。2.映画代が安い、3.ビールが安く飲める、4、学校のそばにいくつか映画館がある。

*2:その弊害も多々としてあるわけで、忠実になればなるほどベタになる。