面談

朝10時に学校に行くのは辛い。バス来ねー。寒。しかも雨降っているし。
というわけで指導教官からの出頭命令で、数ヶ月ぶりの面談。

話した内容は論文の進捗状況と過去に貰ったコメントへの返答。

コメントの一つで「ここ注に引いているけど、一次史料当たった?」というものがあり、それについてのやり取りが個人的には面白かった。

当該箇所は一応僕がやっている研究の一番まとまっているといわれる研究書からの引用。史料を引用して、その人の分析が入っているのだけれども、注記の仕方が下手というか、不親切で一段落まとめて注で出典などを記載している。

僕が引用した理由は単純で「こう判断しているのは、僕だけでなく、ある程度コンセンサスを得た知見ですよ」、ということを指し示すためのもの。だから別にあってもなくてもいいんだけど、一応他人様の意見も目配せしていることを示したくて引用している。

なんだけども、彼が提示している史料をまだ全部見たわけではないのだけれども、経験的に判断すると、僕が引用したところの元になる史料はそこに含まれて居ないみたい。そこに挙げられている新聞の日付、書簡の書き手、あて先からの判断なんだけど。

そういうことを指導教官に話したら、笑いながら本を受け取り、「まあ信用しないことだね」と。ここから先はよく言われる話。「歴史家だからと言って、史料を丹念に見ているわけじゃないから」、とか、「どっかの目録から引っ張ってきただけかもね」*1とか、「その出版社だと編集が甘いから、どこかで抜け落ちたのかもね」とか、まあそういう感じ。

おそらくそういうことなんだろう。人間誰だってミスをする。僕の過去に発表した研究論文も、燃やしてしまいたいぐらいの単純なミスを何箇所か自分で見つけ悶絶したことが何度もある。

指導教官は続けて曰く「だから、ちゃんとやらなきゃならないんだよ」と。
文章書くことは誰でもできる。でもそれを整理し、意味づけして、次の研究に繋げるための努力が歴史学には必要なんだ。「いいかい、いい研究というのは、文章がまとまっているとかそういうところで判断されるじゃない。注と文献目録、これらだって重要な意味を持っている。ぱっと見たところこの本は、この点でぜんぜんダメだね。ところでコイツ、どこの大学出ているんだ?」、と。いや、この大学なんですけどね。まあ、言われることはだいたいどこでも同じ。

史料の記録の仕方などについての情報交換とか少しあって、その後論文の進捗状況と日程についてお話を。9月末帰国、だから9月半ばまでに完成、という話をすると、「キツイけどがんばれ」とのこと。とりあえず8月半ばまでまた居なくなるらしいのだけれども、学校のメールボックスにできた分および、プランを入れてくれれば、助手がそれを転送し、コメントをつけて僕の手元に送り返してくれることになった。「英語で文章書くのは大変だと思うけど、普通の言葉でいいから、君が考えていることを全部書いてしまいなさい。アカデミック・ライティングなんて小難しいこと、どうでもいいから」とのこと。

最後に「いいかい、注と文献目録、これがやたら時間掛かることはわかっていると思うけど、念には念を入れてしっかり作ること」と。

というわけで当分死ぬ気でがんばらないといけなくなりました。
これが終わらないと帰れないけど、帰る日にちだけはもう確定しているので、あとはやるだけです。

*1:そんな目録があったら僕がパクリたいぐらいだから、たぶんない。だから理由は他のところにあるんだろう。