補足コメント その2

今の保守系論壇誌の記事のかなりの部分が、非常に知的負荷の低い(ほとんど読み手自身の思索を要求しない)ものになっているようです。いわばエンターテインメントですよ。テレビドラマやワイドショーと同レベルの知的負荷しか要求しないものになっている。

という指摘について。といっても保守系論壇誌なんて読める環境にないので、推測を基にしていることは最初に言い訳しておきます。

厨さんのこの認識はおそらく正しいと思います。たぶん「知的負荷」は低いのでしょう。でも、その原因を、僕は受容者のレベルが低いからだとは判断していません。むしろ、いろいろなことを知りすぎてしまっているからこそ、そういう一件短絡的に見えるような理解が、重要視されていると考えています。もちろん本当にわかっていない人もいると思いますが。

この単純化を指向する理解というものは、端的に「まとめサイト」の発展という現象に表れていると思います。少なくとも僕が日本に居たころには、この手のサイトはほとんどなかったはず。でも、なにか共通の話題が出現すると、ほぼ確実にこの手のサイトが誕生する。なぜこれが流行るのか?誰だって過去ログを読むことができるはずなのに。

ポイントは2つあると思います。一つに読む労力、可処分時間の問題と考えていいでしょう。他にもおっかけたいネタはいっぱいあるのだから、一つのネタのために割ける時間に限りがある。僕らは意外とそんなに暇人じゃない。

もう一つはそこまでしてネタを追っかけているにもかかわらず、それらに込められた過剰な情報量、意味によって僕らは混乱してしまっている。多くの場合、一つの情報の周辺には、ノイズや不協和音など、瞬間的に理解するのにふさわしくない関連情報が連なっているはずです。これらをどうにかして排除したい。排除し、純粋なネタとしてそれを扱いたい。この強圧観念の裏には、当然のように社会学の人たちが盛んに指摘している<繋がり>というものへ憧憬があるのだと考えています。。

そういう必要があるので、誰かが、議論を整理し、そこに「正しい」解釈、意味づけをしてあげなくちゃいけなくなっているのです。そして、そういう振る舞いに特化しているからこそ、「まとめサイト」も保守系論壇も受けているのです。たぶんに、アカデミックな言説というのは、時に過剰にその「瞬間的な理解に不必要なノイズ」に目を向けたがる傾向があるので、この流れにはうまく乗れないのでしょう。

例えば、僕はよく「アイリッシュ」という表現を使います。これはもちろん、僕の周りに存在するアイルランド人を指しています。しかし、そういう安易な表現を使っていると同時に僕は、意外と彼らの多様性も認識しています。おそらく、現代における、特にEU圏内の人の移動の流動性もわかっているはずです。わかっていながらも、僕が「アイリッシュ」という発話を行うとき、僕はその指し示す人間の年齢やらジェンダーやらセクシャリティやら階層やら血統やら出身地方やら、そういうめんどくさい情報をすべて打ち捨てて、半ば暴力的に彼/彼女を「アイリッシュ」というカテゴリーに放り込んでいるのです。もしかすると、彼/彼女らは「アイリッシュ」ではなく「ウェールズ人」かもしれないという可能性をも認識しながら。これは単に認識不足というよりも、コミュニケーションを単純化し、安定化するために、選択しているのことだと考えています。それを毎回説明するのは、単純にめんどくさいし、おそらく、対話者として僕が想定している人間もそこまでの説明を必要としていない。その文脈に関しての「共通認識」があること前提、もしくは期待して発話行為が行われている。本当にそういうものがあるのかどうかは、よくわからないけれども。

もう少しわかりやすい事例だと、たとえば「東京人」だとか「阪神ファン」なんて、まさしくそうでしょ。東京という空間にいるからといって誰しもが「東京」という記号を表象することなんてできやしないのに。でも、特に会話やネットでの書き込みでは、そういう安直な表現を用いることによって成立しているし、そこに依存している割合はかなり高いと思います。

このように、コミュニケーションを繋げることの意味が増大するなかで、意識的に意味の単純化が進展している。これは昔のように本当にそれがどういうものかわからなかったころとは真逆で、過剰なまでに意味が溢れている今だからこそ、そういう意味の短絡化が起きていると、認識しています。もちろんこれも受け手の個人差があると思います。今でも白人はすべてアメリカ人、ちょっと浅黒い肌の人間をジプシーと呼ぶ僕の両親の例とかありますし。

だから、ある意味において「まとめサイト」や保守言説というのはマニュアルなのかもしれません。「大きな物語」の失墜*1によって、不完全ながらも既存の価値体系から自由になり、その価値自由がもたらした、時に対立するようなさまざまな見解や情報のなかで、僕らは少し混乱している。

この混乱の根本にある観念、もしくは諦念が「つくる会」幹部が繰り返し用いる「人は自由という思想に耐えられない」というものだと思っています。そして、この感情を足がかりに、保守言説が流布されているし、そこに引かれる人たちがいるのでしょう。

そういう人たちに向かって、「耐えろ」というサヨクの言説の、(正確に言えばこの命法はサ左翼というよりも、近代主義的な立場だと思うけど、)受けは、相対的に悪くなる。なぜなら、保守の言葉が「耐えなくてもいい」と「癒し」、「救済」することを目的にしているのだから。

でも、それがいいことだとは、やっぱり僕にはちっとも思えない。それで、本当に癒されるの?僕はそんな安直な癒しのために、保守マッチョに由来するような言説に抱かれたいとは思わない。これは人それぞれ感じ方は違うと思いますが。

参照枠が失われたと感じる今、とりあえず判断停止して考えることは必要だけど、思考停止する気はさらさらない。でも、そういう傾向は、遠くから見ているとだんだん加速度を増しているように思えるし、それがすこし怖いと感じています。

どうでもいいけど、なんか書いている事が、社会学っぽいな。まあしょうがない。しょせんインチキ歴史家だから。

*1:これ自体が既に新しい「物語」の体系になっているという噂がありますが