補足コメント その1

厨さんからのコメントへの応答という形で、これから数回にわけて『現代思想』6月号に書いた文章の補足説明をしたいと思います。たぶん、4年前に書いた「私たちの問題としての『新しい歴史教科書』」(『国境を貫く歴史認識』所蔵)を併せて参照しないとわかりづらい文章だったと反省しています。でも文字数指定が・・・とか、いろいろと言い訳はあるので、すこし弁解の場を設けたいと思います。

まず楽そうなところから。

もしかしたら作る会の教科書というのは、それと同じで、様々なマージン(沖縄とか武家社会の多様性・複雑性)を全部切り捨てて、テレビドラマ感覚で読めるものなのでしょうか(私は読んだ事がないので)?

これは分けて考えなきゃならないでしょう。

まず1つめに、最近の歴史教科書は全体的に情報量が減っています。今回採択された教科書は扶桑社のものしか見ていませんが、その前の採択の時に少し参照したのと、あと数年間塾の講師として中学生に社会科を教えていた経験があるので、その辺を担保に判断しています。この情報量が減っているということは、扶桑社や「つくる会」に向けられる批判ではなく、指導要領を作っている文科省に向けられるべきことです。

2つめに、これらは中学生、いわば「リアル厨房」に向けられた本であることも忘れてはなりません。教える側の技術もありますし、あんまり情報量があっても、それが学習効果に結びつかないと意味がありません。なのでこの情報量が適当かどうか、僕には判断しかねます。元塾講師の立場だと、情報が減ることは教えるのが楽になるし、指導要領の改訂で受験問題も相対的に簡単になるだろうし。ただ、教師の立場としては、教えたいことが多い人だと、副教材や授業の進め方など工夫が必要になるので、しんどいかもしれません。どっちにしろ、教科書だけで授業はできないはずなので、その副次的な教材まで視野にいれないと議論ができないでしょう。でも、教科書が新しくなると、一から準備しなきゃならないので、現場は嫌でしょうね。肩をもつわけじゃないけど、学校の先生も大変な仕事ですから、あんまり負担を多くするのはどうかと思います。ただでさえ授業の質は良くないのに、さらなる低下に繋がるかもしれません。

最後にテレビドラマ感覚で読めるかどうかは、読みという行為は人それぞれなので、ちょっとわかりませんが、ただ、前近代以降に関してはかなり時代小説チックな話になっているので、そういうのが好きな人にはたまらないかもしれません。僕には、そういう小説を読んで安直に歴史的教訓を導きたがるオッサンの願望がストレートに反映されているようにしか読めませんでしたが。「オレが幕末に生きていたら、新撰組に入って・・・」とか「オレが明治維新の元勲だったら、新しい国家を・・・」みたいな。イメージとしてはプレジデントとか読んで言うようなオヤジ。そんなに世の中変えたかったら、酒飲んで管巻まく前に、とりあえず地方選挙にでも出馬したらいいのに。いや出馬されても困るんだけどね。あくまでこれはイメージの話ですけど。

まあそういう印象なので、ネタとしては面白いけど、これで教えろというのは、正直厳しいのでは、という感じを受けました。この辺は、歴史家の僕よりも歴史教育を専門にやっている人たちがもうすこし具体的に議論してくれればいいのに、と思っています。

あと、前回も意外とそうだったんですけど、今回はよりいっそう『歴史教科書』よりも『公民教科書』の方が面白いです。もちろんネタとしてですが。名前は伏せられていましたが、おそらく「朝日新聞」と「産経新聞」がとりあげられ、同じ話題でもこんなに話が変わります、さてどちらの社説が良いか比較をしてみよう、みたいなディベートの企画があったりします。ネットの反朝日厨房ニュース・サイトじゃないんだからさ。こういう笑って済むような話だけならいいんですが、「社会契約論」に否定的だったり、現行憲法に否定的だったりと、これ使うと本気で受験に不利になるんじゃないの?という記述も盛りだくさんです。君ら憲法変えるつもりだろうけど、いつ変わるかわからないだから、とりあえず義務教育ではちゃんと今の憲法を教えなきゃだめだろうよ。

そういうわけで、ネタをネタとして笑える人間は楽しめるけど、みんながみんなそういうわけではないだろう中学生向けには、正直どうかと思います。まあ文科省の目論見は「厨房」の大量生産にあると思っているので、それには合致しているのでしょうけど。もちろん僕はそんな社会嫌です。