論文指導

先日のお話。

指導教官から出頭命令が下る。その前に手渡した論文の一部分についてのコメントと今後について話したいとのこと。

会う前に、彼の手直しが入った論文の断片を受け取り、コメントを呼んで、自分なりの答えを用意して、面談。

コメント自体は大した内容ではない。文体(主語)やスタイルなどへの注文がほとんど。あとは用語について若干の突っ込み。

例えば「ハイエラーキー」*1という言葉。

師「このハイエラーキーという用法がわからなかった。」
僕「といいますと?」
師「だって、君、その前に教会権力のこと書いて、アンドで繋げているだろ」
僕「はあ。」
師「アイルランド史では、ハイエラーキーつうのは教会の位階秩序を差す用法しかないから、」
僕「え、そうなんですか」
師「だから、意味が取れなくてね。これどういう意味で使っているの」
僕「パターナリズムとか、そういう感じの意味なんですけど、どういう風にしたらいいでしょうか?」
師「うーん」

もう少しわかりやすく説明すると日本の歴史研究の文脈ではよく使われる「名望家」のお話。「名望家」というのは、ある共同体(村とか地域社会)のなかで、ちょっと偉くて、政治的な権力を行使できた人たち(庄屋とか地主とか大店とかね)を差す言葉。近代化のある局面で、だいたいどこの地域でも、この手の人が影響力を行使する時代が少なからず存在する。おそらく今でも、場所によっては見られるはず*2。僕の論文だと、ナショナリズム運動に民衆が動員されるときに、教会と地方のお偉いさんの影響が強かった、というすっごくありきたりなストーリ。だからあんまり調べずにスラっと書いた。

でも、書く段階からこの「名望家」の影響力というのをどう表現するかが、ちょっと難しく、悩みポイントであったから、ちょうど良い指摘だった。

この言葉が日本の歴史学に定着するきっかけはたぶん大塚史学あたりに求められるだろう。僕の認識だと、ウェバーあたりが元ネタだと思う。そういう流れなので、イングランドのジェントリーとも容易に結び付けられて考えられるし、日本の近世−近代の農村の権力構造とむ結びついて、非常に使い勝手の良い概念なわけです。もちろん日本で教育を受けてきた僕の発想も、概ねこういう理解によっている。

でも、それを簡単にアイルランドに適用できるわけじゃない。


もし仮にウェバー辺りからそのまんま用法を持ってくる場合、それが指し示す内容と19C半ばのアイルランドがそれが同じ状況なのかどうか検討しなきゃならない。たぶんこれは概ね大丈夫だとは思うけど、だれもそんなこと知らないから、結構念入りに説明しなきゃならない。それにわざわざ「ドイツ語」の用語を持って説明する意義も考えなきゃならない。

で、これがダメそうなんで、次にイギリス史の文脈での用法を考える。そうすると今度は「ジェントリー」的な立ち振る舞いが、どれぐらい広域に見られたのかという話になる。アイルランドの場合、宗派の違いが特に問題となる。もちろん僕がここで対象としている人々はカソリック。でおそらく、「ジェントリー」というカテゴリーで括られる人々よりは、影響力は少ない*3
と思われている。そういうわけで、「ジェントリー」的な支配文化が宗派の壁を越えて共有されていた、ということも、カソリックの「名望家」が既に「ジェントリー」並みの影響力を行使できた、ということも、僕の手持ちの史料では判断できない。それを検討するだけで、間違いなく論文一本にはなる難儀な作業だし、指導教官*4も、そういう認識ではないそうな。

じゃあ、英語では実際なんていうかというと、notableとかになるわけです。で、これを使おうとすると、違う問題が生じて、この単語は元々フランス語なんで、そういう実態を性格に表現しているわけではないし、できれば使わないほうがいいと、アドヴァイスを受ける。

で、打つ手が無くなり、二人して黙りこく。

僕「アイルランド史ではこういう場合、どうやって説明しているんですか?」
師「それを調べるのが君の仕事だろ」
僕「はい・・・・」


できのいい弟子だと、ちゃんとアイルランドにおけるその手の先行研究を調べて、そこでの用法を使う、もしくは同時代にそういうことを何と表現していたのかを調べて、それを用いるのだけど、あいにくそこまで手が回らず、適当に誤魔化していたりするわけで、ごめんなさい。

結果、宿題ということで、保留。
ちなみにこういう悩みポイントはだいたい1ページにつき一箇所ぐらいの割りあいであったりする。

言葉の使い方って難しい。

*1:social hierarchという風に使った。その前にネイティブチェックを入れたときにそういう風に直された

*2:今の日本だと特定郵便局長とか?

*3:カソリックの身分解放後の話で、経済的・社会的な地位向上の途上で、分析が難しい

*4:19世紀の土地制度や地主がご専門。